「自分は自分、他人は他人」という言葉がある。それほど腑に落ちないまま、聞き流していたのだけれど、アダルトチルドレンについて書かれた「子どもを生きればおとなになれる〈インナーアダルト〉の育て方」という書籍を読んで、“境界”という考えを知って、自分がいかに自分と他者という境界線を引けずにいたかに気づけた。
ーー境界とは、自分が他の人とは別の独立した存在であることを保証するものです。私たちの育った家庭では、多くの場合、境界のゆがみや混乱が起こっていたり、はっきりした境界が存在しませんでしたーーp.29
ーー十歳の娘にあなたのお父さんは浮気したのよと話すことは、子どもの安全を損ないます。母親はそのことを誰かに話す必要があるかもしれませんが、その相手はおとなとしての能力があって適切なサポートや助言ができる人であるべきですーーp.30
日本には「子は鎹(かすがい)」ということわざがある.辞書には、鎹とは土台のつなぎ目や、梁(はり)と梁をつなぐために打つ金具、二つのものをつなぎとめる役目をなすものの意にも用いられる、とあった。
子どもは夫婦をつなぎとめる役目をなすものなのだろうか。子どもは、太い梁と梁をつなぎとめる役割は負えない。子どもには、自分が太い梁になることが優先的な仕事であって、親はどうぞ自分たち同士でつながってくださいと言いたい。
わたしの幼少期の場合、昼間は、父親の暴言を受けていじめられて悔しい母の愚痴と悪口を聞き、夜には酒を飲む父親がどうぞ今夜は機嫌よく飲み終えてくれますように、と気を使い、そしてその想いは決して成功することは無く、失敗体験だけが自分の中に積み重ねられて過ぎていた。
大人になっても、子どもの時に作られなかった、自分という境界線は薄いままだった。
ようやく知った境界線を意識できると、とても楽になった。誰もが自分をちゃんと生きている。誰かの欠けた何かを見つけて、それを解決しようと、侵入して干渉して、何とかしなければという強迫観念に脅かされて生きる必要はどこにもないのだ。
その時間とエネルギーは自分に使うのが賢いのだ。自分に向き合うことは、目が外向きについている人間としては、実はとても骨の折れる作業だったりする。よほどうまくいかない限り、あるいは志や目標を持たない限り、自分を見つめることは難しい。恐るべき自己保存現状維持ホメオスタシスの力。劣等感に塗れた自分など見たくもない、という悪循環もあったし。
でも境界線を引くことを知ったことで、自分がおぼろげながらも見えてくる。一人の生命が存在するのに、この歳まで生きてくるのに、どれほどの食物を食べただろう。数えきれないほどの植物、動物の生命。その豊かさを生み出してくれる、地球のシステム、毎日毎日の苦労の積み重ねで、今の社会を築いてくださったご先祖様や、先人の方々。感謝。
まず、この小さなわたしを幸せにすればいいのだ、境界線で区切られたこの自分がまず先でいいのだ。こんなに狭くていいんだ。それぞれが重荷の一部分を背負っているから、安心していいのだ、そして反面、誰かがわたしを気遣ってくれなくても、責めるいわれはどこにもないのだ。
自由。そんなふうに肩の荷が降りる気がした。
あんも境界線に守られていたなら、逃げれたのではないだろうか。逃してあげたかったな。起きている苦境よりも、本当はあなたの生命の方がずっと大きくて強くて重要なんだと、伝えたかった。
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