石積みの石たち

熊本の地震の時に、多くの建造物が瓦礫と化した中で、壊れずに残った、熊本城の石積みのことを聞かれたことはないだろうか。

削ったりせず、その石や岩、そのままの形を活かして積まれた熊本城の土台。

この工法は、最澄の興した延暦寺のお膝元の地で生まれた。現在もその工法は受け継がれていて、日本中を廻って講習活動を続けておられ、海外から指導を請われることも多いそうだ。

その伝統の工法を受け継がれている方に、お尋ねしたことがある。
「この、そのままの形を活かすことと、それが最も頑丈で強いことは、人間にも当てはまりますか?」と。

「仏さまの教えの地から生まれた工法ですから、人間についても同じと言えるかもしれませんね。ただ、実際は大きい石を支えるために、たくさんの小石や平たい石も使いますが」とお答えくださった。

どれひとつとして同じ形のない石、岩。人間も同じように見えて、石の違い以上にそれぞれ違う存在なのかもしれない、と言えないか。

親子であろうと、同じ土地の出身だろうと、同い年だろうと、同じ誕生日だろうと、比べようもなく異なっているのではないか。

あんの出自や幼少期は、山のてっぺんから転げ落ちた岩のように彼女を傷だらけにしていただろう。けれど、だからこそ、そのでこぼこで、支えられる人々がいて、活かされる場があったのではないだろうか。

この私も実は、絶えず誰かと比べて劣等感に苛まれ、どこかに正解を探してへとへとに疲れ果てることを習い性にしながら、今までの人生のほとんどを過ごしてきた。

でも、人間のように複雑な構造物が、単純な点数や、顔の良し悪しや、地位や役職で比べることなぞ出来ないし、そうしてしまうくらい、人間というのは愚かだと思うようになった。宇宙が存在させた以上、価値のない人などいない。人間社会にとって有用とか無用とか、愚かしめの判断はできるかもしれないけれど。愚かしい判断かもしれないという自覚は必要な気がする。

もうひとつ、興味深い話を石積み会社の社長さんから伺った。ご自身は、大学に行かれたので、根っからの石積み職人さんでなく、そんなことは起こらないそうだが、職人として修業を積まれたお父様と、息子さんには、石の声が聞こえるそうだ。準備して置いてあるたくさんの石の中から、「そこには私が行きます」という声が。

私たちそれぞれにもきっと、「そこは私が」という働く場、生きる場、活かされる場所があるのだ、と励まされる、不思議なお話だった。

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