少女という存在
「少女」で画像をググってみると、驚く。幼い少女や若い女の子たちが、グラビアアイドルの表情と姿態で量産されている。
少女は可愛い。美しい。ひ弱い。守りたくなる。愛でていたくなる。けれど決して人形ではなく、成長して大人の人間になる前のつぼみだ
一章に登場する少女も、高校生らしき男の子たちから、そのスラリとした脚や、メイクして少し大人っぽくした表情を愛でられている。
人間として生きていくために、少女時代とは、どういう時代であることが望ましいのだろう。
異性に惹かれる年頃だろう。他の人からどう見られるか、気になる時だろう。にしても、人間であるということは、それからの長い人生にために、心身の準備をする意識は必要ないのだろうか。
かくいう私も、いちばんの興味は彼氏ができることだったし、痩せたいと思っていたし、そのどちらもに失敗していることで劣等感の塊になっていた。
「人間は成長したい生きもの」「成長は止まらない」と書かれている明治の文章を読んだ。いつからだろう。成長する人間であることよりも、消費社会の中で消費されるものとしての商品価値や、美しいパッケージを重んじるような傾向が、少女たちの生を侵食しているような気がしてならない。
何より悲しいのは、少女たち自身が、人間としての存在よりも、消費物としての価値で自分自身を捉えている気がすることだ。
例えば、あんが人間の値打ちで自分自身を捉えることが出来ていれば、自殺しなかったのではないだろうか。母親の暴力に耐え、祖母のために介護の仕事を志し、覚醒剤からも立ち直ろうとしていた彼女の力は、どれほど価値あるものだっただろう。悲しみに共感する能力はどれほど磨がれていただろう。
社会が認めなくても、周りの誰からもちやほやされなくても、自分は自分、と胸を張れるような強さ。女の子たち、少女たち、女性たち、弱者と言われる人たちみんなが持ちたいと思うのだ。
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