自由をくれる境界線に加えて“自分”を作るもう一つの要素は、人と人の距離感覚だ。
わたしは小学校でいじめに遭って、学校を飛び出したことで先生や他の生徒たちが気づいてくれて、事なきを得た、という経験があるのだが、それからずっと不思議だったことがある。
いじめる子たちがいた。いじめられる私がいた。そのほかにどちらにも関わらない、加担しない子どもたちがいた、という事実。傍観者と悪くいうこともできるが、自分で自分の平穏を保てていた賢明な子たち、とも言える。どうしたら、そのどちらにも関わらない、安全地帯に居れるのだろう、何となく、そんな謎が長い間私の中に残っていた。
いじめが起きた時、絶対的に加害者が悪いと言われることが多い。でも当事者として、少しの違和感があった。実はいじめられる側にも何か原因があるのではないか、とずっと感じてきた。
人間関係がうまくいく人は距離の取り方が上手いと、あるYouTubeの動画で知って、ふむ、と思った。
近づきすぎるというのは、相手に恐怖感を与える。職場ではいい人なのに、家に帰ればDVというのも、近すぎる距離のなせる技ではなかろうか。
自己コントロールの効かなそうな人の危険区域に入ってはいけないのだ。自己コントロールの効かない私のような人間には、見分けがつかない。周りに見習ったりできるような自己コントロールの上手な親しい人は見当たらなかった。夫婦は仲が悪くて愚痴を言っていて当たり前、みたいな世間を生きていた。私の頭の中には、虐める人と虐められる人の、境界線も距離もない、一方的で暴力的な会話が棲んでいたのだ。
「流浪の月」の登場人物、更紗の同棲相手の亮ちゃんも、そういう人物だ。実家の人びとの間で交わされる会話は、強権的で一方的だ。亮ちゃんの頭の中にも抑圧的暴力的なもうひとりの人が棲んでいて、思い通りにならないと暴力が飛び出してくる。更紗は、傷だらけになりながらでも、ちゃんと逃げ出してくることの出来る女性。彼女の中には、他者を尊重する対話や自分で決めて自分で選べる、自分自身が棲んでいたのだと思う。
他者を、自分とは別の、その人なりの考えを持った人として尊重していたら、撲ることは出来ない。悪口を言うことも出来ない。別の人というのは、自分にとって、自分の判断では分からない存在なのだ。
分からないなら、距離が必要だ。観察する時間も要る。ある程度離れているから、いいところ悪いところが見える。客観的で理性を持っていられる。平和で継続可能な仲良しになりたいなら、無闇矢鱈に近づくことは危険だ。あぁこんなこと、知ってる人には当たり前のことなんだろうなぁ。
でも、たとえばもしアイスクリームを食べたことがなければ、その味は知らない。精神的な成長のことのように見えないことは、知らないことを知ることも出来ない。そういうことはいっぱいある。
自分は、人間は、愚かだなぁという自覚が、人生を慎重に大切に丁寧に少し辛抱しながら幸福に生きていくのに必要だ。
ちなみに、近過ぎて、憎々しい存在にゴキブリがいる。トンボや蝶のように別の区域ではなく、私たちの領域を侵す存在。同じ食べ物(それもゴミのようなできれば見たくないもの)に寄ってくる。同じ昆虫なのに、私たちは平気で殺せる。実は毒性はないらしいのに。遠くにいてくれさえすれば、これほど憎まないだろう。吉田秋生さんの作品にゴキブリが主人公の漫画がある。見られたら殺されてしまうゴキブリの側から描いた短編。私たちの偏見や凝り固まった当たり前に、小さな罅を入れてくれる隠れた傑作。https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%A4%9C%E8%8D%98%E5%A5%87%E8%AB%87-%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%90%89%E7%94%B0%E7%A7%8B%E7%94%9F-ebook/dp/B00YOWWX1Y
距離を取ることの意味を書いたけれど、距離を取れず近づいてしまうことは、自分自身を放りっぱなしだという不足があるとしても、他人の気持ちを理解する共感力を養ってくれる。聴覚障害者とDVの両親の下で繰り返された、徒労めいた気遣いで身についた共感力。あんの状況に想いを馳せられるのも、そのおかげだ。人生に無駄はないのかもしれない。活かせるかどうかだ。
究極は、距離を縮めたり、遠ざかったり、忍者っぽく自在に運用できる自分になれれば、出会った人と平和に居れる。日々、練習。筋トレみたいに、筋肉痛になりながら、少しずつ柔軟に強く早く動ける心身を作っていく。
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