この章には、自己紹介のように、この作品の登場人物とテーマが線画のように描かれている。
何気なく登場する、フレッシュピーチとホイップ生クリームのかき氷。「ずっと食べて見たかったんだ」と少女は言う。
子どもの頃、夢見た何かが実現した記憶。
大したことではないはず。大人から見たら、むしろつまらないこと。フレッシュピーチとホイップ生クリームのかき氷の如く、身体に良くもない。何かのためになるとも思えない。けれどその子自身が、この玉石混交のとっ散らかった社会の中で出会い、心に描いた夢。その小さな頭の中で、心の中で、手にしてみたいと決めた何か。
純粋な希望。
誰にも強制されず、誰かの価値判断を仰がず、ただ、自分だけで決め、それが実現するという経験。
もう少し、この食べ物の話を続けたい。
「ずっと食べて見たかったんだ」というセリフが表現しているのは、なんらかの事情ですぐにはその願望が叶えられなかったことを意味している。けれど彼女は、その願望を持ち続けていたし、そしてこの時、叶っている。
少女は、希望を持つこと、それが叶う経験をした、ということだ。
その後の母親からのメールとそれについての連れの男女との会話も、願望の話だ。
お母さんは「今日は彼氏とお泊まり」。つまり年頃の娘が居るシングルマザーだが、彼氏とのお泊まりという願望を叶えているし、少女も「平気、慣れてる」と言い、返信さえしないが、「今度の彼氏はいい人なんだよね。結婚してくれると安心」「頼りない親を持つと、しっかり者になるのよ」と言い放つ。
様々な親娘関係があると思うが、世間体を気にして、そんなのはわがままだ、留守中に娘に何かあったらと考え、外泊などしない、あるいは娘には隠す、というある意味、常識的、良妻賢母的な場合も、まだまだ多いかもしれない。願望は隠され、共有されず、共感を生まない。
もう一つ、よくある願望を諦めてしまう理由が貧乏だ。ウェディングドレスのバービー人形が欲しくても、いちばん安いワンピースのにするとか、レストランではプリンアラモードではなく、ホットケーキにするとかだ。度重なるうち、子ども自ら安いものを選ぶようになってしまう。学習性無力感の一種と言えるだろう。それでも買ってもらえるだけまし、レストランやファミレスに行けるだけ上等かもだが。
「あんのこと」のコピーは『希望どころか絶望さえ持てなかった』とある。
美味しいもの、美しいもの、豪華なもの、便利なものがあちこちに溢れているこの社会で、どうして小さな女の子がその子らしい希望を、夢を持てずに亡くなったのか。生き延びられなかったのか。
「流浪の月」一章 少女のはなしのフレッシュピーチとホイップ生クリームのかき氷のように、小さな願望が叶うこと、少女がしっかり者になること、そんな秘訣や工夫を解き明かす努力を続けたい。
書き始めてみて、それが出来るように、あんが応援してくれる気がしている。