あんは、どうしたら自殺せずに済んだのだろう。あーでもない、こーでもないと、考えていた。
彼女は生きている、という事実。苛酷の中を生き延びている、という偉大さ。今ここに存在している、ということの重要さに、彼女自身が気づけていたら、認めることが出来ていたら、大切だと思えていたら、死なずに済んだはずではないか。
彼女にそれを認めさせなかったものは、何か。
ーー子どもは、大人の性的虐待(売春の強要も含まれる)に無防備である。大人は、子どもに対して、あらゆる面で圧倒的な力を持っている。大人が、子どもに迫ってきたとき、子どもは逃げることができない。もし子どもが大人からの性的関係を強要されたとき、それを拒めば、親の愛情や保護を失うことを子ども自身、良く知っている。そのために子どもは、親の前で「良い子」「従順な子」であろうと振舞う。そうした努力は多大のエネルギーを伴う。ーー
自殺問題Q&A自殺予防のために p.154 「現代のエスプリ」別冊2002
圧倒的な力の前で、「良い子」「従順な子」であろうとするとは、どういうことか。
「良い子」「従順な子」であるとは、彼女自身で無くなることではないのか。
「良い子」という幻想は、いくらでも高くなっていくハードルのように、捉えどころがなく、届かない彼女を否定する。
現実に、ここに、存在しているありのままの彼女を見えないものにしてしまう。
自分自身ではいられない、ありのままでは生きていけない。絶えず別の存在であることが強要される。多大なエネルギーを費やし、「良い子」になろうとし、そしてそれは大概徒労に終わる。殴られることは日々繰り返される。
暴力は続き、否定は続き、内在化してしまった自己否定が続く。
自己受容という安らぎは遥かかなた、食べたことのないご馳走のよう、出会ったことのない人のように、夢見ることもできずに遠い。
そこに彼女が存在している真実にも関わらず。
圧倒的暴力と権力差が存在する戦場だ。
時間も意志も欲望も全て自分のものではない、無力の世界。
彼女の人生は彼女のものなのに。
生きていること、存在そのものが絶対的に有力なのに。
少なくとも今の日本は戦場ではないのに。
彼女のことを考え続けていたら、自分が答えを貰っていた。
できるだけ「良い子」や「いい人」にならなければならないと私も強迫的に思っていた。
できる限り、至らない点を見つけ、自分を責めたり、否定したりすることでより良くなれると思い込んでいた。
やめよう。 自分ではない「いい人」や「ナニモノカ」になろうとすることは。
戻ろう。 自分は今、生きているという、ホームポジションに。
何度でもどんな時でも。
それがいちばん基礎の重要な真実だから。
未熟で未完成で欠点と長所がある自分をそのまま受け入れる、自己受容という安らぎを自分にあげよう。
そこからなら歩き出せる。自分を虐めず、他者を憎まず。
穏やかに。
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