いい子とやばい人

虐待された子はいい子にならざるを得ない、と前回書いた。愛され、保護されるために、自分であることではなく、いい子であること、圧倒的に強い力を持つ大人に気に入られることを無意識に選ぶ。選ばざるを得ない。

「流浪の月」には、いい人ではなく、やばい人が登場する。更紗の母親(父親も)だ。彼女は、我慢をしない人。ママ友がひとりもいない、そしてそのことを全く気にしていない。ママ友のおつきあいより、楽しいことがたくさんあるそうで、映画を観ること、音楽を聴くこと、朝でも昼でも飲みたいときにお酒を飲むこと。お父さんと更紗との暮らしを愛することに忙しく、つまんないことに割く時間なんてないという人だ。

「灯里さんは感覚的なんだ」とお父さんは言い、同じマンションのおばさんたちは、浮世離れしているとこそこそ言っている。浮世離れの意味がわからなくて、更紗が物知りそうな図書館のおねえさんに訊いてみると「マイペースすぎてやばい人」と教えてくれる。

そういうお母さんと、隠しているだけでやばい人かもしれないお父さん。じゃあ、やばいふたりの一人娘であるわたしは?いつか、やばい人になるのかな?と更紗は考える。

明るいうちからお酒を飲み、気が向いた時にしか料理をしないお母さん、たまにはアイスクリームが夕食になるお家、子どもには過激とされる映画を家族で観て、お父さんとお母さんがおはよう、おやすみ、いってきます、おかえり、とよくキスをする、それら諸々すべてがクラスメートには信じられないことだったようで、彼女は学校では変わり者で、仲間はずれだ。理由は、変な家の子、だから。でも彼女の家では、それらは笑い話になる。更紗は陰口を言われてもまったく傷つかなかった。お父さんとお母さんがやばい人でも、更紗はふたりが大好きで、やばいことになんの不都合も感じなかった、そういう我が世の春の子ども時代を彼女は過ごす。その幸せは続かないのだけれど。

暴力や力の強い大人からの抑圧によって、自分でいることが認められない、いい子。
やばい両親だけれど、大好きで、やばいことになんの不都合もなく幸せでいられる、変わり者の子。

子どもたちには、成長のその時々に備わっている力がある。養われていく力もある。早く歩くとか、早く字を覚えるとか、よその子と比べて、優れていて欲しいと思うのは、親ならば誰でもやりがちなことだろうけれど、本当に必要なこと、親にできる最大限のことは、その子が、自分の良さや変さ、やばさを、認めること、なんの不都合もないということに気づくこと、周囲の目より、陰口より、自分の幸せを優先して当たり前だという強さを伝えることではないだろうか。

というより、むしろ大人や親自身が、自分の幸せ、自分の変さ、やばさを受け入れることが大事だろう。親だから、しっかりしていなくては、とか、子どもを躾けなければとか、妙ないい格好しいに陥っていないか、自問自答する方がいい気がする。

もし大人が、実力ではなく大人という権力で子どもに向かい合ったなら、子どもは実力では愛されないと思い、無理ないい格好しいを真似るかもしれない。

正直にありのままで、キミが居てくれて幸せ、と子どもたちと生きれていたら、子どもにはそれが伝わる。

人間がひとりひとりに分かれているって、それぞれに良くて変でやばくて、違和感もあって、別々の力や人生の宿題を背負っているからではないかな、と思う。親子だって、似ていたって、別もの。尊重して尊敬するべきものではないか。

変さ、やばさ、それを自分で認める、受け入れて生きる親たち。更紗はその価値観の中で過ごしたから、それからの困難を乗り越えられたのではないだろうか。

目には見えないものだけれど、自分の幸せを自分で掴み取っていくための、強さの芯。唯一無二の自分の価値を、自分で認める。現実を、正直さを、実力を。そのまま生きる強さが培われていたと思えるのだ。

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